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【INTERVIEW】MOJITO Designer / Hirohumi Yamashita

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MOJITOのスタート時から展開されるブランドの代名詞的存在であるABSINTH SHIRT。そのシャツの名の由来となるアブサンという名の酒は、その高い中毒性から禁酒とする国があったというほど。その名を冠したABSINTH SHIRTも同様に、シンプルでありながらも拘りぬかれたバランスやディテールから多くのファンを生み出してきました。そしてこの22SSシーズンには約7年ぶりとなるINDIVIDUALIZED SHIRTS製のABSINTH SHIRTがリリースとなります。私たちMAIDENS SHOPでは、オープン当初の頃からお取り扱いさせていただいており、ひと際思い入れのあるアイテムです。今季はそのABSINTH SHIRTへ生地別注というかたちで、エクスクルーシブなアイテムを作らせていただきました。更には、私たちMAIDENS SHOPはデザイナーの山下氏と古くからお付き合いさせていただいている間柄。これを機に是非とも山下氏から直接色々なお話を伺いたいと思い、この度のインタビュー企画と相成った次第です。
THE STORE BY MAIDENSの方では、MAIDENS SHOP別注ABSINTH SHIRTについて、山下氏から直々にシャツについて解説いただいておりますが、こちらでは山下氏のパーソナルな部分についてのインタビューをご紹介させていただきます。ファッションへの目覚めからあの伝説のアメカジショップであるプロペラ時代、そしてMOJITOの立ち上げまで、当時の様々な思い出を交えながらお話しいただきました。

アメリカへの憧れ

―はじめに山下さんがファッションを意識し始めた時の話を聞かせてください。

まず子供の頃から洋服が好きというよりも、漠然とアメリカが好きで、アメリカそのものに憧れていたのが強かったです。映画や雑誌などで目にする様々な国の中で、イギリスでもフランスでもなく何となくアメリカが良い、みたいに当時は感じていたんだと思います。で、その後に段々と洋服に興味を持ち始めるのですが、アメリカ古着にハマっていきます。そこで洋服に対しての価値観が大きく変わりました。というのもアメリカの古着を知ることによって、今まで自分が触れてきたり、良いなと思っていた洋服が実は嘘だと気が付く瞬間があったんです。元ネタはこっちだったんだみたいな。例えば、それまでは日本のブランドが作ったブルゾンを見てカッコいいなと思っていたんだけど、実はアメリカ軍のMA-1が元ネタだったんだと。M-65、A-2、デニムジャケットなんかもそうでしたし。そういったことに徐々に気が付き始めた時、さらに追い打ちをかけるように雑誌ポパイで掲載されていた古着特集を読んで完全にやられましたね。そこからは古着にのめり込んでいきました。

―その気付いてしまったタイミングというのは何歳くらいの時ですか?

15,6歳の時です。

―山下さんの生まれは68年で、15,6歳の時だと80年代前半くらいですね。その頃だとアメリカだけでなくヨーロッパの洋服文化も日本に少しずつ入ってくる時でしょうか。

はい。ポパイやホットドッグプレスなんかでアメリカの文化を紹介し始めた時に、たまにアンアンあたりで、フレンチスタイルやチープシックといった言葉が出始めていました。だから僕らの世代でもイギリスにハマる人やフランスにハマる人、そしてアメリカにハマる人がいて、そんな感じでした。

―さらにはセレクトショップと呼ばれるお店ができはじめたり、洋服屋さんの数も増えてくる時代ですもんね。

ちょうど僕が中学二年の時にプチ家出をして初めて東京に出てくるんですけど、シュープリームスっていう古着屋さんがあったんですね。あと赤富士とか。その時、Levi’s 501の66前期やタイプ物のフラッシャーが付いてないだけのデッドストックが34,000円くらいだったんですけど、なんでこんなに高いのかと驚きました。だから10代で3万円もするジーンズを買ったら周囲でちょっと噂になるレベルでした(笑)あいつ金に物言わせてるぞ、みたいな(笑)

―他で売っている一般的なジーンズは大体いくらいだったのですか?

アメリカ製の501で原宿・渋谷は5,800円程で、上野はもうちょっと安いくらい。まぁ昔話になっちゃいましたけど、結局はアメリカ物に惹かれたことが僕の洋服好きになったきっかけですね。小洒落た感じもしないし、男っぽいし。

―そういった経験が山下さんの洋服に対しての原体験ですね。

そうですね。古着にハマって、そこからデニムにハマって、次は軍物、アウトドア、ハワイアンやスウェットシャツであったり、要はアメリカのユニフォームっていうものの呪縛にかかった15年間でした。(笑)

―なるほどですね。そもそもの何となくアメリカがカッコいい、の何となくのきっかけは映画ですか?

当時のテレビでやっていた金曜ロードショーとか、そういうのが最初だったと思いますよ。映画繋がりでの話なのですが、ロサンゼルスとかに仕事で行くようになって、ハリウッド業界なんかに精通する人たちと話していると、マックイーンのデニムのセンタークリースの話になって。その人に、マックイーンは日本ではデニムにセンタークリースをいれて穿いていた洒落者だという認識をされていると話したら、それは違うと。あれほどの成功した俳優だったのだから非常に多忙だったし、そうなると洋服は全部クリーニングに出していたはず。当時のクリーニング店からしたらマックイーン様様だから、トラウザーズもデニムも関係なしに全てプレスしていたんじゃないかと。

―お洒落やこだわりでやっていたのではなく(笑)

そう。その人たちはそう言っていましたね。ヘミングウェイもそうなんですけど、マックイーンしかり、現代にも残る名門ブランドの銘品を着ていたところからファッションセンスが優れているみたいな評価になっていますけど、当時はブランドの選択肢がそもそもなかったですから。

―そういったエピソードも日本で再解釈された偶像的な部分もあるのでしょうね。先程の元ネタの話にもどことなく共通していますね。

山下さんの経歴

―それでは次に、山下さんのアパレル業界でのキャリアについて伺わせてください。上京されてまず服飾の専門学校に入学され、卒業後からMOJITOの立ち上げまで、その期間も様々な経歴を経てらっしゃるとお聞きしています。

まず専門学校を卒業するときに、スタイリスト事務所のインターンでスタイリストのアシスタントをしていました。それと同時に原宿にあったプロペラにも履歴書を持っていきました。当時は履歴書を出してから面接をしてもらえるまで半年くらいかかることも多かったんですね。というのも店長が海外出張で不在だと1カ月は全く連絡もない。当然、携帯電話もメールもなかった時代ですから、電話かファックスしか手段がない。で、そのアシスタントをしている時に、アシスタントからスタイリストに契約が変わるタイミングがあり、まだプロペラでの採用も決まっていませんでしたが、そこで事務所を辞めました。なぜ辞めたかというのが、当時のスタイリスト業界の中に身を置くよりも、やっぱりアメリカのモノに囲まれて生活したいという思いが強かったからですね。そして21歳の時にプロペラへ入りました。

 


21歳の頃の山下氏。ゴローズのベルトにLevi’s 501

 

―プロペラという店名自体は耳にしたことがあるのですが…実際にはどんな洋服屋さんだったのですか?

新品(輸入衣料)と古着はデッドストックだけを取り扱っていました。60坪ずつの2層構成で、でっかいポルシェが店内に2台あるという。

*PROPELLER(プロペラ) 1988年に神宮前の裏原宿にてオープンした、アメカジセレクトショップの草分け的存在。アメリカ中西部地方の片田舎にある納屋をイメージした店内には、まだ当時では珍しかったアメリカを中心としたインポートウェア等が展開されていた。日本のアメカジカルチャーを象徴する伝説のショップとして語り継がれており、店のある通りは“プロペラ通り”と呼ばれるまでになった。

—今ほどではないにしても当時からその界隈に洋服屋さん等は何店かあったのですか?

あの通りはバナナボートとプロペラしかなかったですね、あと美容院が何件かあるくらい。明治通りには人がいるけど、店の前は誰も通らなかったのでキャッチボールして遊んでいました(笑)

―洋服屋さん自体がまだ少ない時代ですもんね。

あの辺りであったのがプロペラ以外だと、ビームス、バナナボート、シカゴ、サンタモニカ…表参道のサンタモニカは古くからありますね。

―プロペラでプレスやバイヤーを務め、6年間在籍していたプロペラを辞められた後はどうでしたか?

その後はアメリカンラグという店の立ち上げをやりました。ロサンゼルスとサンフランシスコにある古着屋で、そこが日本進出をするという事でアメリカでの仕事経験や小売りの経験等を評価してもらい、声を掛けてもらいました。

―アメリカンラグはプロペラとはまた違った提案の洋服屋さんだったのですか?

プロペラに入社してから色々な事を勉強できました。そうするとまた更に新しくやりたい事がいっぱい出てきて。そのアメリカンラグでは古着と新品物とデザイン物、あとはAldenをやりたかったんです。当時は僕の知る限り、古着と新品とAldenを一緒に扱う店って他になかったと思います。で、メンズだけでなくレディースも展開していました。その後はお店の名前が、本社の経営の都合上メイソンディクションに変わり、外部環境の影響などもあって解散となってしまいます。

―そこからMOJITOの立ち上げに繋がっていくのですか?

その後、会社員や契約を経てフリーランスになりました。フリーになってからはブランドのコンサルティング等を色々やっていまして、その時は同時に7社との契約があったりですごく忙しかった。そんな時期が2~3年続いていたある日、急に予定のない1日ができたんです。で、その時にたまたまインターネットで特許庁のホームページでモヒートという商標を調べたら、ちょうど使われていなくて。すぐに電話して全部自分で商標を取得する準備をして、そこから約1年半かけて他の契約していたブランドを全て終わらせ、MOJITOをスタートさせました。

山下さんにとってのヘミングウェイ

―商標の取得がきっかけとは意外でした。ましてやそのタイミングで商標の検索をしていなかったらMOJITOが生まれていないかったかもしれないですしね。そのMOJITOではヘミングウェイをアイコンとしていますが、なぜまたヘミングウェイだったのでしょうか?

ヘンな言い方ですが(笑)、ヘミングウェイというのは、僕の好きなアメリカンカジュアルや好きな物を表現するにあたって、一番都合の良い存在だったのです。旅する文豪と呼ばれた彼は、旅をし、釣りができて、酒が飲めて女性にモテて、ノーベル文学賞までとって頭も良い。僕にとっての理想の男性像で、これ以上他に必要な要素がない。となればヘミングウェイをちょっとずつ紐解いていけば、今まで僕が勉強してきた洋服について分かりやすく表現をしていけるのではないか、と思って選びました。例えば他のアパレルブランドにとってのその様なアイコンはマックイーンだったかもしれないし…そういった分かりやすいアイコンが僕にとってはヘミングウェイでした。そんなにお洒落ではないけども、分かりやすいアメリカンマッチョというイメージがMOJITOのイメージに最適でした。

―山下さんがヘミングウェイを知ったきっかけは?

やっぱり老人と海という作品からですね。その小説を読んだのがきっかけです。ちなみにMOJITOの商品には、ヘミングウェイが着ていた洋服をそのまま模倣して作ったものってあんまりないんですよね。例えばガルフストリームパンツという商品のウエスト部分のディテール(パンツと共生地のベルトが付属し縛って着用する仕様)は、ヘミングウェイが船上で穿いていたイギリス軍のグルカショーツからきているのですが、そのショーツのベルト部分の2本になっている先端がリボン結びされている様に見えたことがきっかけです。あとは小説の主人公がこういう風に洋服を着ているのではないか?というのを僕なりに都合よく解釈して、アウトプットしているのがMOJITOの洋服なんです。

―山下さんの想像を交えながらのモノづくりという事ですね。

そうです。あるデザイナーが言っていたのですが、「山下くんずるいよね、結局自分がやりたいことに後付けでヘミングウェイが…、と言えば何でもそうなるもんなぁ(笑)しかもデザイナーが言うよりもヘミングウェイがこうだったかもって言うだけで説得力が全然違うもん」なんて言われたこともありました(笑)

―そういった洋服に対しての柔軟な考え方みたいなところは、当店別注ABSHINTH SHIRTの解説の時に伺った、自由な着こなし~の話とも通じるものがありますね。では最後にもう一つだけお願いします。ヘミングウェイ以外で他にも格好良いと思ってらっしゃる人物がもしいれば教えてください。

難しいですね…誰だろうなぁ。日本人で思いつくのは、豪快さや生き方という部分で開高健さんですかね。

―分かりやすく容姿が良いとかお洒落な人といった、映画俳優やミュージシャンよりもそういった男性像に魅かれるのですね。

もちろん、格好良いミュージシャン等いっぱいいるんですが…例えば洋服屋さんがファッション性という点からウッディアレンの着こなしが好きっていう方も多いと思うんだけど…僕はウッディアレンよりヘミングウェイに魅かれたんですね(笑)

―最後は少し悩ませてしまう質問ですみません。お忙しい中この度はありがとうございました。

日本におけるファッション文化の発展に大きな影響を与えたアメカジ。その文化の発展を担った一人である山下氏からお話しいただく当時の体験談やエピソードは、その時代背景や文化を感じられる、大変貴重なものでした。若くしてアメリカに憧れ、アメリカ古着を通してファッションを学び、アメリカを肌で感じてきたその山下氏の経験そのものが凝縮され、MOJITOとして表現されています。憧れのヘミングウェイのスタイルと、ご自身で多くの洋服に触れてきた経験からなる洋服は、山下氏の半生そのものという印象を受けました。。文豪アーネスト・ヘミングウェイが遺した作品と同様に、MOJITOの洋服も時代を超えて愛され続けていくのではないでしょうか。

山下裕文(やました ひろふみ)
1968年生まれ熊本県出身。服飾専門学校を卒業後、スタイリストアシスタント経た後、名店PROPELLERのプレスやバイヤーとして活躍。その後、米国ブランドの日本進出時の立ち上げからディレクションに携わり、2005年の独立後は数々のファッションブランドのコンサルティングを中心に活躍。2010年には自身がデザイナーを務める「MOJITO https://mojito.tokyo」をスタート。ブランドのMOJITOという名の由来はヘミングウェイが愛したとされるモヒートからとったもの。ヘミングウェイの作品を読み解き、自身の洋服に対する哲学を通し、ヘミングウェイの世界観を表現している。MOJITOとは、この稀代な文豪へのオマージュであり、男たちのための“道具としての服”の名でもある。

MAIDENS SHOP 山田

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2022/04/28

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